私の話:ローラン・バルトと文章愛の時代

 

 

ん。

 

本当はNoteの方が好きなのだけれども、やっぱり、自分の話を自分を探しに来ていない人に見せるのは、やっぱちょっと違うよなって。

 

さて。昨日の記事を書いていた時のメタ的な話をしよう。

 

出発地点は昨日の記事の通りで、最初は、命題の、作者より、読者が理解するっていうのはあり得るのかっていう疑問から始まった。直感でしかないのだけれども、割りと結構、こういう話、文学者とか哲学者とか好きそうな気がしたので、存外に資料が見つかるだろうし、まとめればそこそこ自分にとっても面白い調べ物になるし、少しくらいは私の好きな人達にとっても面白い話になるかも知れないな、と。

ただ、ある部分で、気づいてしまった。「あー、これは、結局、『作者の死』の話なのか?そうなのか?そうなのだろうな…」それは、結構悲しいことだった。たとえば、それは知らないと思っていた答えが、知っているものだったから。そして、最大限に、それは、私が挑むには大き過ぎるテーマであることがわかったから。私は、自分の能力の限界を結構よく計ってて、それでは戦えないと思ったら、正しく、きちんと、諦めることにしている、特に、最近は。

でも、私は、中途半端に諦めが悪くて、あと、中途半端に、そうではない話を、不格好でもまとめるのが、最近は少し好きだったから、そして、言葉をとにかく終わらせられなくなっていたので、終わらせる練習をしないと、と思っていたから、あんな感じにまとめちゃった。終わらせるためだけの終わりっていうのは、結構嫌いなもので、自分が嫌いなものになってしまっているのを、自分は自分で嫌いなのだけれども、そういうのがしかたなくやらないといけない日もあるよね。他人に少し優しくなれる?わからない。今日くらいは大目に見てあげるかもだけど。

本当は今月の月初の月頭戦史も書こうと思えば書けたのだろうけれども、昨日の記事に輪にかけて酷い代物だったので、あれは書き上げられなくてよかったものなのだろう。悲しいけど、正しいことだ。

私は、だいたい記事とかを書く時、ある程度のリサーチが終わったら、わーーーっと、一気にワーキングメモリーが飽和する程度に短時間で読み込んで、マルコフ連鎖みたいに、一人アハ体験ジェネレーターみたいに無矛盾な論筋を引き出すっていう、なんだか結構無理やりな文章の書き方をしている。だから、一人アハ体験ジェネレーターがいい道筋を導き出してくれないと、こういうふうに、座礁する。今回の月頭戦史が書き上げられなかった理由の片方は、有名なトピックだからと、あぐらをかいていたら、有名なトピック故に、その細部をきちんと捉えた資料とは存外に少なず、結果良い資料に巡り会えず仕舞いだったということもあるが、体調と精神の悪さというものもあるのだろうが、どうも老いから来るワーキングメモリーの減少で、上手く頭に仕舞えず、道が見えなかった、というのが大きい。日に日に劣化する自分の脳に、果たして私は何時まで私が好きなことを好きなようにできるのだろうかな。残された時間は、思ったよりも少ない。

そういうカッコ悪い話が、ここまで。ここからは、少し前向きな話。

さて、今回のリサーチ(作者の死の方だ)をやっていた最中あるブログにたどり着いた。これが、結構好きだったので、その話も少ししたい。

「欲望を高貴にする」:ロラン・バルト講義集成『いかにしてともに生きるか』、『〈中性〉について』、『小説の準備』(筑摩書房、2006)

正直、私はローラン・バルトが好きかというと、そうでもない。フランス現代思想で一番好きな人を上げろと言われれば、私はレヴィ=ストロースを上げるし、たぶん色々と一番縁があるのはサルトルだ。(私とサルトルの関わりを知ってる人、ここ爆笑ポイントですよ?)私のTLでは、ドゥルーズが何故かとても人気で、私も、「逃げろ。だが逃げながら銃をつかめ」は、結構ワンライナーとしては好きなのだけれども、それ以上を語れるほどじゃない。

で、ローラン・バルトに関しても、ちゃんと読んだことがあるのは『物語の構造分析』と『零度のエクリチュール』くらいで、『物語の構造分析』も今回にあたって十年ぶりくらいに読み直したくらいだ。

ただ、そんな私ですら、少し読み直しただけで、ローラン・バルトという人となり、彼の雰囲気、考えていたことを、昨日の文章で、少し書きたくなってしまったというのが、少し面白い事実。『作者の死』について、語ってる文章で、作者について語りたくて仕方がなくなってしまったことに気づくとより一層面白い。

そして、ここで引用するブログ記事のローラン・バルト像、あるいは自身からの引用も、すごい私に響くものがあった。

ロラン・バルトはやはり深く深く文学的な人だったのだと思わされる。書くこと、書き物のなかの生の可能性、それを追求したのではないか。彼はもちろん概念と戯れるけれど、それはむしろフィギュールと遊ぶためであり、その言葉や表現、意味や含意との終わることのない、終わるはずのない意味作用の逃走にこそ、バルトの快楽があるように感じた。 ---うろたどな

バルトは、網羅的であることを執拗に求めてはいない。 ---うろたどな

なんだか、私が感じたことと、本当に似たようなことをこのブログ記事を書いた人は感じ取られていて、すごいなんというか、嬉しい。きっと、この人も、ローラン・バルトの文章を読んで、彼のことを語らずには居られなかったのだろう。同じものを読んで、同じ感情を得て、同じ結果に至ってる人がいるってだけで、なんだかすごく私は嬉しい。

そして、ローラン・バルトはそこで止まらない。彼は私を許すと、言ってくれる。

「私は自分の名において語るのであって、科学の代わりに語るのではない。私は自分自身に問いかけるつもりだ、文学を愛する私自身に→この小さな片隅、それこそがまさに〈書く欲望〉なのである。」 ---『小説の準備』、221頁、 うろたどな

そして、何よりも嬉しかったのが、この部分。毎月戦史を始める前のここ数年、文章のスランプ的ななにかに陥っていたのは、後述の話もあるのだけれども、きっとここのことを言えなかったからなんだろうな、と思って。

科学的手法ガチガチの修士課程にいる最中に私の語る私の文章の書き方を忘れてしまったのは、私は偶然ではないと、感じている。会社という空間の人間関係は煩わしいし、メーカー故に科学的手法とは無縁では居られないものの、それでも、研究室よりは、ずっと人間だ。

「私は自分の名において語るのであって、科学の代わりに語るのではない。」、きっとしばらくこの言葉をハモりながらお風呂で鼻歌を歌おうと思う。

 

さて、そんなこんなだが、実は、ブログ記事の主題であり、タイトルにもある、『文学が証しだてることのできる唯一の革命とは、欲望を高貴にし、人間の醜悪さではなく、人間の高貴さをエクリチュールにするという文学行為』というのは、少し同意しかねる。特に、戦争を主題の文を多数書いていると、自分の倫理がぐちゃぐちゃになり、なにを話していいかわからなくなる。今、まさにある戦争を、私が描かない理由も、半分くらいはこれが理由だ。

もちろん、ブログ主も『それは人間の欲望の浅ましさや醜さがますますパブリックな領域で演じられ、デジタル空間を充たしている21世紀において、おそらくバルトがそう述べたときよりも、はるかに時代外れに、はるかに的外れに響くかもしれない。しかしこの恐るべきまでに時代錯誤的かもしれない約束にこそ、文学の可能性が賭けられているのかもしれない。』と書いているので、それに完全に同意していないのは見て取れる。

そして、それは、『バルトが果たそうとして果たせなかった書記行為である。』と続く。となると、やっぱり、少しわかる。陳腐な話だけれども、完璧主義に陥ると、文章が何も書けなくなってしまう。

昨日以上に取り留めのない話だ。『きのういじょう』を変換しようとしたら、機能異常が一発変換できる以外の変換候補が与えられなかった。そういうところだよ、世界?私はそんな一意に規定されるものが大嫌いなんだ。

でも、世界を一意に雨で染める梅雨は好きだ。暑さで規定する夏は嫌いだけども。

そろそろ、夏が来る。

夏は嫌いなのだけれども、今年はなんだかわくわくする。今年、じゃなくて、最近、かもしれない。なんだか、歳を取るごとに、今年こそ夏を好きになれる気がして、少しうれしい。せっかくだし、『コレラの時代の愛』でも読み返そうかな、と思ったりする。

8月にまた会えるそうなので。